満月の月光水族館で、展示番号S-44が公開された。 水槽の名札には、こうある。
「粗品世界線における、まだ発見されていない“やさしさ”の標本」
青い照明の下で、その標本は魚の形をしていなかった。 誰かが送信直前で消したメッセージ、 返事を書きかけて閉じたメモ帳、 笑うタイミングを逃した沈黙── そういうものが、透明な群れになって泳いでいた。
観覧メモを取っていたのは粗品世界線_未確認個体報告書の編纂員だ。 彼はページの端に、小さく書く。
「敵対個体なし。代わりに“ためらい”が確認される。 この世界線は、まだ修復できる可能性が高い。」
閉館間際、館内放送が流れる。
「本日の最終展示は、あなたが見なかった優しさです。」
ぼくはガラス越しに、自分の横顔を見た。 そこには確かに、昨日言えなかった一言が浮かんでいた。
出口で学芸員が手渡したのは入館証ではなく、 反響区の夜明けの小さな切り抜きだった。 “観測だけでは世界は変わらない。再生ボタンを押せ”と書いてある。
帰り道、ぼくは一通だけ、短いメッセージを送った。 「遅くなってごめん。元気?」
水族館の水面が、遠くでひとつだけ跳ねた気がした。